ドキュメンタリー・ドリームショー 山形in東京2004

10回券とやらをつい買ってしまった。一度も山形へは行ったことがないのだが、来年こそはぜひ行きたい。今回東京で上映された作品は魅力的なものが多かった。そのなかで見たものを総括。



『10 Minutes Older』 ソ連/1978/ヘルツ・フランク


『フラッシュバック』 ラトヴィア/2002/ヘルツ・フランク

ラトヴィア出身のドキュメンタリー作家、ヘルツ・フランクの自伝的作品。自身の過去のフィルムからの引用を含め、現在の彼の姿を彼自身の手によって描き出す。複数のカメラマンによって撮られた映像を繋ぎあわせ構成される本作を、ヘルツ・フランクはそれらこの作品に協力したカメラマン達に捧げている。


『レイムンド』 アルゼンチン/2002/エルネスト・アルディト、ヴィルナ・モリナ

アルゼンチンの映像作家、レイムンド・グレイザーの生涯を追ったドキュメンタリー。ドキュメンタリストであるレイムンドはカメラを武器に体制に批判的な政治映画を作り続け、その活動はアルゼンチンを越えてラテンアメリカ全体に及ぶ。キューバアルバレスのフィルムに影響を受け、グラウデル・ローシャ他、中南米の映画作家と様々な交友を結んだ。彼は刑務所で拷問の末に殺されたが、その事実の背後には政府とCIAの策略が潜んでいる。映画はレイムンドの歴史を再構成しながら、彼が作りだした多くの作品のなの断片を見せてくれる。この作品が教えてくれるのは、レイムンドの個人史とアルゼンチンの政治史とのみごとな重なり合いである。


『俺はロボットか! パリ、国鉄労働者』 フランス/1968

フランス国鉄労働者の労働闘争を描く作品。闘争そのものを映し出すのではなく、そのプロセスにある労働者同士の協議、労働の理不尽さについてのダイアローグからなる短編。場面は鉄道車庫の他、封鎖中のソルボンヌ大学にもカメラは向く。小川プロによる日本語吹き替え版となっている。


『叛乱 5月、パリ、1968』 フランス/1968

パリ5月革命のドキュメント。街頭闘争の模様を鮮明に映し出す。ただ闘争の進行を追うドキュメンタリーではなく、素材をランダムに編集し、アジテーションを含んだナレーションが全面に押し出される。アジビラ的映画。これもまた小川プロによる日本語吹き替え版


『若き人々の行為』 フランス/1968/モーリス・ルメートル

レトリスム運動の第一人者、モーリス・ルメートルの作品。ただし、レトリスム的な視覚文字を映像上にコラージュする手法は含まれていない。五月革命の素材フィルムを乱雑に斬り込み、編集される。


『花のサンフランシスコ』 アメリカ/1968/ニューズリール

当時のロックサウンドをバックに、サンフランシスコの路上で起こった闘争がリズミカルに描かれる短編。


バリケードコロンビア大学』 アメリカ/1968/ニューズリール

コロンビア大学での学生闘争のドキュメント。大学内部に立てこもる学生達の生活に密着。小川プロによる日本語吹き替え版。


『ブラックパンサー 白豚を殺せ』 アメリカ/1968/ニューズリール


『NO GAME ペンタゴン・コンフローテーション』 アメリカ/1968/


ハノイ13日金曜日』 キューバ/1968/サンチャゴ・アルヴァレス


『加速する変動』 アメリカ/1999/トラヴィス・ウィルカーソン

「サンチャゴ・アルヴァレス風」に作られた、サンチャゴ・アルヴァレスについてのドキュメント。作品全体にアルヴァレスのフィルムが織り込まれ、また作品全体がアルヴァレスが得意とした編集の手法によって構成される。「写真2枚と編集機、そして音楽があれば映画がつくれる」とはアルヴァレスの言。「緊急映画(シネ・ウルヘンテ)」と呼ばれる彼独特の思想を継承し、この伝説的ドキュメンタリストを現代に再生させようとする。最後に挿入される『79歳の春』(1969)の破壊的映像はやはり圧巻。戦場の轟音にのせて、物質としてのフィルムそのものがスクリーン上で引き裂かれ溶解し、その解体される様を直接提示するこの映像はいったいなんなのか。解体されつつも映像足り得ろうとするその光景は、朽ち果てつつも存続する廃虚を想起させる。ゴダールの『東風』におけるフィルム・スクラッチを超えるだろう。実験映画の目論みなど越えたところで、真に映画の究極を示唆される。


『現認報告書』 1967/小川信介

三里塚・強制測量阻止闘争』 1970/小川伸介

『おきなわ 日本1968』 1968/井坂能行

『地下広場』 1969/大内田圭弥

いずれも日本の社会派ドキュメンタリー


『ネオンの女神たち』 ベルギー、香港/1996/ユー・リクウァイ

都市に生活する3人の女性をカメラにとらえる。映画の最終部、都市の地下道でタップダンスの練習に勤しむ女性、その姿を冷静にとらえるいかにも都市的な光景のショットが印象的。


『東京イン・パブリック』 日本/2003/ジャ・ジャンクー

東京、銀座の路頭の風景をただ撮り続ける作品。


クメール・ルージュの虐殺者たち』 フランス/2002/リティ・パニュ

ポルポト政権下、政治犯収容所に居合わせた加害者、被害者双方が時を得て対面し、当時を生々しく追想していく。そこで語られる悲劇は、映像において表象することの不可能なものだ。そこで、この映画の選ぶ手法は、ただ語りによって過去を追想するのみに留まるのでなく、現在廃虚となりつつあるその場所において、当時に行われた行為を、その主体に再び再現させることである。語りによって歴史に考察の切目を入れていく手法は『ショアー』に見られるものであるが、行為の再現から顕れるこの奇妙なリアリズムは、現在において我々にリアルな恐怖を体験させる。そうさせなくてもいいものをあえてさせることで、歴史が、現在に、「視覚的」に浮上させられる。


第三世界』 1998/タイ/アピチャッポン・ウィーラセタクン

『真昼の不思議な物体』 2000/タイ/アピチャッポン・ウィーラセタクン

演じるもの/演じられるもの、という二つの近代的概念の境界が曖昧にされる。物語を演じる人物が俳優であるのか素人であるのかということは、もはや問題にならない。物語は、人々が生活するその場に、またカメラの前に偶然集まった人々の間に実体的に交流するものであり、物語を実際に交流させてみせることこそが、この映画のねらいであると言える。そもそもこの映画のストーリーは、従来のシナリオというものに信じられてきた絶対性を払拭したところからはじまる。人々の関係や日常の癖や、個々の歴史に対応しながら、ストーリーは相対的に進行し、変化していく。物語という素材を通じて、虚構の領域と現実の領域の同時性を発見させられる映画だ。