十九歳のジェイコブ

中上健次の小説を舞台化。松井周の脚本も素晴らしく、松本雄吉の演出は味がよく出ていた。すごいのは、役者。シークエンスがころころ切り替わるが、テンションの高い演技を常にしているのにもかかわらず、それをある一点に保ちつ次のシークエンスに移り変わる。松本さんの維新派での手法、シーンの視覚的な切り替えがこの演劇にもあって、異なるのは役者がセリフの芝居によって情景を作り出していること。シークエンス毎の場の気分、テンションががっちり固く、それが編集作業のようにして舞台に連続して現れる。舞台としての現実感の強度がとても強いのと同時に、一連の物語が映画のようにして流れていく。役者の強度、場の強度に、こちらの気持ちが高揚してくる。
大音量で場の情勢に上塗りされる、或いは介入してくる音楽も、伝わるものが多い。コルトレーン、アイラーの音の説得力に舞台の世界観が融合する。ヘンデルのアリアはより情景的な要素になる。舞台作品、ライブ作品における音量の賜物か。音量があるほうが、音楽の説得力は増すのだ。
バクーニンの言葉のスクリーン投影、中上健次の小説原文のスクリーン投影は、前景で演じられる世界の異化効果として機能する。異化効果というより、違う次元におけるナラティブなのだ。ユキの頭にあるバクーニンなるものの表象。中上健次の頭にある小説の言葉の表示。複合的に、多角的に降りかかる作品世界。松本さんの演出はすごい。

コンタクト・インプロビゼーション

濱口竜介監督『不気味なものの肌に触れる』に砂連尾理のコンタクト・インプロビゼーションのワークショップの場面が出てくる。2人の人物がお互いの肌に触れないギリギリのところで、互いの微細な動作を把握し反応し合うとあうもの。触れずに感じるものに意識を集中することで、普段はあまり意識されない感情によって自分の動作が起こり、相手との新たなコミュニケーションが成立する。これを基礎として第三者の視点から見せ方を作っていくと、コンテンポラリーダンスなどの身体表現が出来上がる。肌に触れない、というやり方の正反対にあるのが、コンタクト・ゴンゾーのパフォーマンスだ。ゴンゾーは複数名のパフォーマーの肌と肌を執拗にこすり合わせる。触感であるとともに、動力のぶつかり合いともなる。こうして出来上がるパフォーマンスは、一見するとケンカや格闘技のようなものに見えるが、勝ち負けの試合ではなく力のぶつかり合いからコミュニケーション=平衛の状態を導き出すことを主眼においたものだ。ダンス創作に於ける二つの方法である。
おそらく、音楽にも同じ事が起こる。触れずに感じる、つまり耳で相手を聞きコミュニケーションをとることと、力と力の馴染み合うポイントでダイナミズムを生み出し、コミュニケーションをとること。フリー・インプロビゼーションの音楽だけでなく、様々な音楽表現に含まれる本質だろう。

印象派

愛知県立美術館で印象派展を見る。モネ、セザンヌの確立した印象派からスーラ、シニャックの新印象派、点描の技法の到達点としてモンドリアンの抽象に行き着く流れがよくわかった。中途で登場するゴッホは自身に繊細さを要求される点描の技法が馴染まず、その技法を独自に咀嚼しながら、大胆な筆感によってむしろフォービズムに近づいた。ゴッホの比類のないスタイルはやはりかっこいいし、同様のポジションにいるもう一人の画家はムンクなのか。印象派は視覚による世界の捉え方を革新したが、その流れがまた新たな捉え方を生み出す20世紀美術を用意したことが時系列に把握できる。ただし、宗教画を脱して身近な風景を芸術に捉えた印象派は市民社会の成立とパラレルであったが、社会的な弱者の立場から表現されたものは少なかった。美しい風景を美しく適切な色彩配分で絵画に表すことは人々の感情に暖かく響くが、製鉄所で 働く労働者の姿や街に佇む物乞いの姿をリアリズムに基づいて描写した印象派の数少ない政治性を持った作品のほうに、むしろ現代性を感じたことは確かだ。20世紀の芸術である映画を見る態度と似て、芸術作品にはそこに描きこまれた現実感を読み込む事が大切なのだと思う。19世紀と20世紀の芸術表現の差異を感じる展覧会でもあった。

丸ノ内

東京ステーションギャラリーの英国現代美術展はいまひとつ。ブリティッシュカウンシルのコレクションとのことだが、キュレーションがあまりよくない気がした。ただ、この美術館の立地は駅直結で素晴らしくよく、普段現代美術展に足を運ばない一般層を呼び込むには好都合。際どい表現を含有できるようなエッジの効いた企画展をこれから期待したい。
雨だったので丸ノ内の地下をあるき、始めてJPタワーに入ってみた。インターメディアテクは時間外で終了していたが、六層吹き抜けの空間は圧巻、でも、すべてショップなどの商業施設なので、ショッピングモールの域で少し残念だ。f:id:murakei:20140302181800j:plain

横須賀美術館「白髪一雄」展

品川から京浜急行に乗って1時間弱、浦賀の駅に降り立つ。そこからバスで15分、観音崎に到着。バス停より徒歩5分あまりで横須賀美術館に辿り着いた。東京からだと長い道のりである。小旅行に来たような気分が、気持ちを高揚させる。東京湾を遠望するこの美術館の立地は、率直に言って素晴らしい。海のすぐ近くに建てられた美術館の一つとして神奈川県立近代美術館の葉山館があげられるが、個人的には横須賀のほうが好きだ。しかし、どちらの美術館も三浦半島にあることは、この半島の文化が海と深く繋がっていることを表していよう。

「白髪一雄」展。単に足で抽象画を描く作家として認知していただけで、詳しく人物についてこれまでに知ることはなかった。作品単体では、何度か出会ってはいたが、まとめて触れるのは初めての機会だ。アンフォルメル、アクションペインティングなどの用語で紹介される。吉原治良が設立した具体美術協会の参加者である。作品の印象は、それぞれ異なる。ストロークによる表現が、本質にあるのだろうか。絵の具と、それを動かす物の折衝によって、絵画が形作られる。その折衝を起こすのが、白髪一雄である。

『4.48 サイコシス』

『4.48 サイコシス』あうるすぽっと

舞台と客席を反転させた演出に、まず驚く。ひな壇状の舞台上客席の一番上に座ると、舞台となる、あうるすっとの客席スペースが遠望できる。この俯瞰の視点とパースペクティブは、非常に新鮮である。まるで箱庭を眺めるような感覚。あちらに広がる世界が、客席としてのこちらとかけ離れた場所に見えるのは、舞台緞帳を通常とは逆の内側から見ることに起因しているのではないだろうか。舞台の枠組みの中で起こっていることではなく、舞台の外の現実を、ある視点から俯瞰することから、物事が起こっているのである。もしかしたら、この視覚は写真に近いのかもしれない。ピンホールカメラのような、箱状のものの内部にある感覚。飴屋法水の演出は素晴らしかった。

『転倒する快楽』

ロバート・スタム著『転倒する快楽』を読む。日本語で読める数少ないブラジル映画研究の書だが、ブラジル映画研究を中心にしているのではなく、バフチンの理論、主にカーニバル、ポリフォニーヘテログロッシアなどの概念を映画分析や文化研究に応用していくもの。バフチン自身は映画には直接言及したことがない、というところからスタムの関心はバフチン理論の映画にたいする有効性を最大限に引き出すことに集中している。語り口は鮮やかだが、終始バフチンの理論体系に話が帰着するため、多少食傷気味になることは確か。しかし、バフチンはやはり面白いし、バフチンを吸収した南米、とくにブラジル文化研究者のスタムという人も、相当面白い人なのだということはわかる。この本のなかで、ブラジル映画についてのスタムの評価が、実はシネノーヴォにはなくて、シネノーヴォ以降の映画にあることを知る。シネノーヴォの映画運動よりむしろ、80年代以降のパロディー映画などのほうにスタムの評価は置かれている。

『世紀末の政治』におさめられたミュニッツ・ソドレの「ブラジルの超政治学」という論考が、ブラジルについて考えるにあたってかなり参考になるが、論旨としては非常にスタムに近いものである。